¶ プロローグ 人の判断は状況によって いくらでも変わり得るものだ。 照りつける太陽と 好天の空を見上げながら、濱中はおもった。 いま、ちょうど授業がおわったところである。 初夏の今、今日は 行楽にでかけるには 絶好の青空で、普通なら心弾む天候だが、 授業をするには この気温は 快適とは言い難く、 じっとりとにじみ出る汗が授業の疲労を加速した。 研究室に 帰りつくなり、冷房をいれる。 研究室の計算機には メッセージが届いていた。 「模倣犯の(上)、読み終った。読みたければ 取りに来てくださいな Nより」 ¶ 異次元からのメッセージ トン、トン。 「あ、どーぞー。」 「やぁ」 Nの研究室にはいるなり、コーヒーの香りがした。 Nは 濱中とほぼ同世代の女性の教官である。 同じ委員会の仕事をしていることもあって、 ときどきこちらの研究室をおとずれることがある。 あらかじめ 本を取りにいくといっておいたので、 コーヒーを用意してくれていたようだ。何か 面倒な議案でもあったっけかな、と おもいつつ、 授業のあとのコーヒーの格別の味を想像して、ソファーに腰かける。 委員会の面倒な話のあと、模倣犯の話になった。 「それがさ、もう 恐いんだって。」 彼女は よく大学に泊がけで仕事をするのだが、 そんなときに、模倣犯を 読むらしい。 真夜中 だれもいない校舎で ひとり寝泊りするだけでも あまり気色のよいものではない。 ふと、携帯電話が鳴った。着信音が違うので、濱中のものではない。 そそくさと Nが電話に出たが、出るなり、 「あれ?まただ」 「どうしたの?」 「それが 変なのよね」 彼女の話を要約すると、こうだ。彼女の携帯電話にときどき 留守電からの転送を知らせる電話が入るらしい。 これ自体はちっとも 不思議なことではない。事実、彼女は 研究室と 自宅と いずれにも 留守電をもち、両方ともに転送設定を しているからである。 「でも、その転送がかかってくるのは 研究室にいるときだから、 研究室の電話からの転送ではないのよ」 「それなら、自宅からなんでしょ?」 「ところがそうでもないのだ」 自宅は 電話番号を通知にしているので 自宅からの転送は 通知で かかってくるはずなのに、その転送は非通知でかかってくる ということなのだ。実際、自宅からの転送は いままで何度もあり、 それらは すべて番号通知のコールであった。 「ということで、その転送電話は 非通知なの」 「電話機がこわれてるんじゃないの? いますぐ 自宅のメッセージを聞いてみなよ」 「よし」 その場で 自宅のメッセージを確認すると 留守電は入っていない。 「うーん、それなら 可能性はひとつだね。だれか知らない人が 転送先の 電話番号をまちがえて登録したんだ。きっと 君の番号と一つ違い とかじゃないのかな。」 案外、大した謎ではないので 濱中はがっかりした。元来、不思議な事、という ものが大好きなのだ。 「んー、あ、そう!まだ 不思議なことがある。」 「どんな?」 「その不思議な転送ね、私の暗証番号でメッセージの内容が聞けた。」 一瞬、ぞっとした。彼女とおなじ暗証番号を使い、 彼女とほぼ同じ携帯電話の番号をもつ、誰かがいる。 ふと、こんな言葉がもれてしまった。 「君がもうひとりいるんじゃないのか?」 「やだ、やめてよ。気色わるい。」 電話という 不必要に複雑化した配線のなかで、もうひとりの自分と 偶然にもつながってしまう。なんとミステリーなのだろう。 「あ、そうだ。それで その不思議な転送の メッセージの内容が聞けたんでしょ」 「うん」 「どんなメッセージだった?」 そのメッセージは 彼女にも覚えのない見知らぬ人間によるメッセージだったの だそうだ。 ¶ エピローグ 夕刻、車を走らせながら、濱中は 考えた。 自分の暗証番号でメッセージが 聞けたということは 自分の電話機だ。 ところが、研究室ではありえない。現に研究室にいたのだから。 また、自宅でもありえない。実際、今日 転送があった直後、自宅に電話して 留守電を確認してもらったが、留守電ははいっていなかったのだ。 見知らぬ人間による、見知らぬメッセージ。 それが 彼女の携帯にとどき、彼女の暗証番号で解除可能。。 自宅につくなり、妻に この話をした。妻は 私以上にミステリーが好きなのだ。 「…というわけなのだよ。ドッペルゲンガーを思い出さないか。」 彼女は 時間差をおかず 即答した。 「電話あげなかった?」 「は?」 はずかしいことに 私は一瞬何の事か わからなかった。 「だから、N先生が 古い電話機を だれかに あげたんじゃないの? そのときに、転送設定を リセットせずに そのまま だれかが 使ってるんじゃないの?」 一瞬、声が出なかった。たしかに 合理的な、そして 唯一の合理的な解答だ。 「じゃ、餃子焼くね。鞄 片付けて。」 人は 見たいものを 見ると言う。砂漠では オアシスの蜃気楼を。 謎を望む者は 謎を。 |