2002年01月の低次元日記

02.01.07

曖昧に対する寛容

すみません。今回は オチなしです。

友人からの手紙、曰く、
「他者の曖昧さに不寛容なのが理系的とは思わない」と。

もちろんそうだ、私もそう思う。他者に厳しく、正確な表現を強要しただけでは
理系的発展は何も得られないからである。

一方で、理系的思考は 曖昧さに不寛容である。この記述は 上記文章とは矛盾しない。
理系的思考は 演繹的手法に基づく論理的推論による思考であるから
他者とのコミュニケーションの中で 新たな結果に至ろうとする場合には
相手の意見、発言、提言の意味に不正確さがあっては困るのである。
もちろん、ここで不正確であってはならないのは 叙述法であり、
叙述したい内容は不正確であってもかまわない。
たとえば目指すべき方向が定かではないが、
その存在だけが 明らかな場合もあろう。

ところで、上記の手紙の文章は なぜか 暗に 「他者の曖昧さに寛容であれ」と 聞こえる。
これは どういう思考回路が働いているのか 自分でもはなはだ不思議だ。
一種の反語理解の作用なのだろうが、
「Aである事ががBであることとは 思わない」を反語と捉える際、真の意味を
「AでないことがBであるのだ」と考えたくなるのだろうか?
これは 論理的には はなはだ間違っている。
たとえば、「法律を完全に尊守させることが警察の役割とは思わない」と
「法律を完全に尊守させないことが警察の役割である」という叙述
は直接的には 無関係だ。すくなくとも 同値ではない。

さらに、他者の曖昧さへの寛容というのも、TPOがあろう。
日常会話および、生活の中のコミュニケーションにおいて 他者の曖昧さに寛容的であることの是非と、
議論および、論理的コミュニケーションにおいて、 他者の曖昧さに慣用的であることの是非は
違ってきて当然であろう。

そもそも 議論においては 他者の曖昧な発言を 適当に鵜呑み もしくは
自分勝手に推論しつつ、議論を発展させていくことが よいこととは 言いきれまい。
逆に、言語というコミュニケーション手段の不完全性を盾に 曖昧さに隠れる
ことが文系的とは 思いたくない。文系の者こそ、言語の不完全性を知りつつ、
その表現法を発展させ、機知に富んだ豊富な表現を使い、
果敢にその不完全に挑んでいただきたい。そうでなければ、文系とは
単なる数学嫌いである、という烙印を押されてしまうことになろう。

このような議論は 大変危険である。なぜか。多くの人が論理的思考を
する人を 好まないからである。その証拠に、どういうわけか、ドラマのなかでは
論理的思考をする者より、感情で生きるタイプが成功する。どういうわけか、
理屈という言葉には だれもが 屁という言葉をつけたがるのである。

よって、理系的思考を 弁護するのに、論理的記述を用いること自体が
首をしめかねないのだ。

上記までで 述べたことは 理系的人間が 他者の曖昧さに不寛容であることは
議論や 論理的内容の会話に限れば、悪いことではないということだ。

一方で 日常では 他者の曖昧さに寛容的であることは よいことだと思う。
それは 確かだ。

そして 自分が 他者の曖昧さに対して 寛容的とは 言いきれないことも知っている。
それも確かだ。

何故か?極めて、率直に、赤裸々に 自分の心に問うてみた。
おそらく、私は 間違えたくないのだ。そう、だれだって、間違えることは
いやなことである。相手からの曖昧さを伴った発言は 曖昧さゆえ、
意味を取り違える可能性がある。(それが 曖昧の定義だ)
意味を取り違えたまま、誤った行動、発言にでたとすれば、それは
自分の間違いであろうか?相手の間違いであろうか?
いや、とにかく、間違うのがいやなのだ。
いや、もしかすると 間違うことを 恐れているのかもしれない?

計算機に心があったら、どんな風に思うだろうか?
エラーを吐くことを 恐れるだろうか?
もちろん、私は計算機ではない。だが、計算機を
「理系的」である人間のメタファーとして用いても そう間違いではなかろう。

02.01.08

正月に実家に帰ったら、家の中を整理するとか言われて、

めっちゃでかいクマのぬいぐるみ

をもらいうけました。
今日、家内がHMVでCDを買ったらクジを引かされて、大当たりがでて、

400%HMV特製bearbrick

とかいうおもちゃが当たったそうです。bearbrickとは テディベアをモチーフにつくった現代版おもちゃらしく、
今回あたったものは

マニアの間では数万円

で取引されているようです。
ふと、思い出しました。
しし座流星群をみながら、

「くまくまくま」

と叫んだことを...
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